一通りの取材が終わってふとカレンダーを見ると、畜産業を追いかけ始めて、2ヶ月ほどが経過していた。
その頃はまだ記事の結末を決められなくて、書いては消し、書いては消しを繰り返していた。
そろそろ答えを出さなくてはならないなと思ったちょうどその時、根保さんから連絡が入った。
あの時私が付き添って屠畜した牛を使った料理を提供したいという誘いだった。
その日、根保さんは出張シェフを招いた「あやはし牛を食べる会」を開催するとのことだった。
かねてから根保さんの「あやはし牛」を絶賛していたそのシェフが、沖縄の食材と組み合わせて、いちからコース料理を作ってみたいと提案したのがきっかけだったらしい。
私はふたつ返事でその食事会に参加することにした。
テーブルに運ばれてくるのは、あの日私の目の前で殺された牛だ。
もう以前のように、「何も知らないお肉」ではない。
私はこの牛がどんな顔をしていて、どんな性格で、どうやって殺されていったのかを知っている。
シェフは、調理方法についてを丁寧に説明してくれた。
そのどれもが途方もなく手間暇をかけた調理法ばかりで、聞いていてめまいがしそうなほどだった。
根保さんは、自分の育てた牛を隅々まで使って料理してもらうことを望んでいる。
そして実際、今回のコース料理では、腸や心臓から普段あまり使わない部位のお肉まで丁寧に調理されたものが、運ばれてきた。
私はその料理についてを説明するシェフ、そしてその横で微笑む根保さんを通して、あらためて牛への心からの敬意を感じていた。
そして美味しく丁寧に作られたその料理を食べる人たちの顔はとても幸せそうで、ひとくち、ひとくち、慎重に大切に口に運んでいるのが印象的だった。
そのへんの調味料をつけて食べて、残った分はゴミ箱に捨てる。
そんな現代に多く見られる簡易的な食事は、そこにはない。
そしてこの形こそが、まさしく彼の言う「質の良いお肉にして、無駄なくみなさんに届けること」なのだと確信した。
さて、目の前に私が関わった牛のお肉がある。
食事会に並んだ料理を見て、私は素直に、「美しい」と思った。
そこに悲しみや切なさはあったけれど、私が想像するような「気持ち悪い」という気持ちはおこらなかった。
てっきり、全部を知ってしまったら、グロテスクな現実に向き合ってしまったら、もうお肉なんて食べられなくなってしまうと思っていたから、自分がそうならないことが意外だった。
「いただきます」と、何回も言葉にした。
切り分けて、ゆっくりと口に運び、味わってから、飲み込む。
その時私に湧き上がった感情は、罪悪感や現実への吐き気ではなく、感謝と安心感、そして幸福だった。
昔、こんな記事を読んだことがある。
子豚三びきをあかちゃんから育てて、自分の手で殺して食べたという女の人の記録。
可愛がって育てた豚を殺して食べた彼女は、「まるで愛していたあの子が自分の一部になったような、深い幸福感に包まれた」と語っていた。
飼い喰い 三匹の豚とわたし 内澤旬子さん
その記事を読んだ時は不気味だと思ったし、そんなわけがないと思った。
ずっと手塩にかけて育ててきた動物を食べて安心感を得るなんて、なんだかカニバリズムを連想させる。
だけどそんな私も、実際に自分が関わった牛を口にした時、まさに彼女と同じ気持ちになったのだから、心底驚いた。
そのお肉を飲み込んだ後、そこには感謝があり、「私の一部になってくれたんだ」という、満たされた特別な幸福感があった。
読んでいて怖いと思うが、私も怖い。
だけどこれが、私の感じたありのままの感情だ。
そしてこれが本当の意味での「牛に感謝をしていただく」ことだと感じた。
彼女は私の血となり、肉となったのだ。
「牛に感謝をしていただく」
今までその言葉を薄っぺらく感じていたのは、私が本当の意味での「感謝」をしていなかったからかもしれないと思った。
少なくとも全ての取材が終わった後、その言葉は全く違うものに思えた。
ーーーーーー
ヴィーガンになるのか、ならないのか。
この取材を通して出すべき答えの話をしたい。
結論として、私はこの取材を通して、「ヴィーガンにならない」という選択をとった。
そこにはいろんな理由が含まれている。
もちろん栄養士の方からの意見もそのひとつだ。
やっぱり人間が自然な生活をしていくうえで、肉食は必要なのだと、私はそう判断したのだ。
だけど何よりも大きかったのは、根保さんのような人たちを守りたい、と思ったからだった。
そしてこの気持ちはおそらく、牛へも繋がっていくと思う。
ある牛舎に遊びに行った時、ヴィーガンについての話題になった。
そこにいたオーナーの女性が話していたことを、今でも覚えている。
牛飼いさん「動物を守りたいっていうけどさ、ヴィーガンを勧めている人たちって、牛にとって一番最悪なことをしてるって気づいてるのかな?」
yuzuka「最悪なこと?」
牛飼いさん「世界中の人がヴィーガンになるなんて、ありえないじゃない。
貧困の問題もあるわけで。ヴィーガンってのは恵まれた人たちだけができる贅沢な選択だからね。」
yuzuka「たしかに」
牛飼いさん「じゃあ、もしもこの活動を続けて行って、本当にお肉を食べる人が一定数減ったら、どうなると思う?」
yuzuka「どうなりますか?」
牛飼いさん「まずは私たちがやってるみたいな、小さな牛舎から潰れていくんだよ。
利益よりも牛のことを1番に考えてやっている牛舎から先に潰れていく。そうなって最終的に残るのって、牛をものみたいに扱って、劣悪な環境で安いお肉を量産しているファクトリー農場だけだ。
結局あの人たちがやってるのって、牛を大事にする農場を潰すことなんだよ」
ーー
たとえば根保さんの牛舎では、美味しいお肉を作るために、抗生剤のモネシンを利用していない。
多くの牛舎ではこの「モネシン」が使われていて、その薬によって脂肪がぶくぶくと膨れ上がるしくみになっているらしい。たしかに太るし、霜降り肉になりやすいから値段はあがるが、味が相当に落ちるという。
もちろん、牛にとってもあまり良くないことは確かだ。
他にも、てっとりばやく太らせるために食パンの耳など、ただカロリーの高いものを与えている牛舎なども多い。
そのどれもが「儲け」のためだが、味は落ちるし牛のためにもならないからと、根保さんは手を出していない。
もちろんそういうことをした方が根保さんの懐に入るお金は増えるわけだけど、やらないと決めているのだ。
実際、根保さんの作ったお肉が使われたハンバーグを食べてみたとき、驚いた。
塩をつけなくても臭みが全くなく、旨味の詰まった肉の味がする。
「そんなの大げさでしょ」と思っていた自分をひっぱたきたくなるくらい、美味しかったのだ。
私は彼女の言葉だけが全てだとは思わないし、それがヴィーガンをすすめない正当な理由になるかどうかは分からないけれど、それでもやっぱり、あの言葉には真実が含まれていると思う。
もしもそのような状況になった時、おそらく一番最初に潰れるのは、根保さんのような人が経営する牛舎だ。
牛のために、消費者のために、愛情を込めて美味しい肉を作っている人の牛舎だ。
この記事を読んで、「ヴィーガンになりたい」と思う人も出てくるかもしれない。
反対に、「絶対に肉食は辞めない」という人もいるだろう。
私はその両方の気持ちを否定しないし、それで良いと思う。
ただ、ここでもうひとつ、私からの提案を聞いてほしい。
それは、「知って買う 知って食べる」ということだ。
- どこで育って、どうやって殺された牛なのか分かるところからお肉を買うこと。
- ケージフリーで飼育されている場所や、食べさせている餌や環境が見える卵を買うこと。
- 放牧されている農場でとられたミルクを買うこと。
それは全ての現実を知った上でお肉を食べるという選択をとるあなただからこそできる選択だ。
「牛肉」でいうのなら、牛に寄り添う牛舎から、お肉を買ってほしい。
もちろん、根保さんの牛舎だって完璧とは言えないだろう。
だけど想いのある場所で消費をする人が増えれば、きっと最後は、動物に還元されると思う。
大切なのは、その場所の見極めだ。
正直にいうと、これだけいろんな経験をしたあとでも、私たちが動物を殺して食べる権利があるかといわれると、まだ分からない。
もしも神様がいたら、こんな野蛮なことを続けている人間にはいつかバチがあたるだろうとも、本気で思っている。
事実として、全員が栄養士を雇ってサプリと一緒に大豆や野菜を食べれば、動物を殺さずに生きていくこともできるのだから。
だけど多くの人はそれをせず、動物を殺すことを選ぶというのもまた、事実だと思う。
その理由を考えてみると、多くの人にとって、自分自身の豊かな生活のために「肉食」が欠かせないというのが、やっぱり事実だからだと思う。
肉は確実に栄養を授け、人を元気付け、幸せを与える存在なのである。
ヴィーガンの人は、「一切の生き物を傷つけずに生きたい」と望んでいる。
その理想は素晴らしいし、実現したい。
だけど現実には、人間が生きている限り、それはあまりに難しいことでもあると思う。
穀物を育てる田んぼには農薬がまかれ、畑を荒らすイノシシは殺されるし、病原菌を撒き散らす可能性のあるネズミは駆除され、ゴキブリは叩き潰される。
人間が食べ物を作るために、生活をするために、病気にならないために、時には「不快になりたくない」という理由のためだけに、私たちは多くの動物を犠牲にしているのだ。
私は本来、本当に動物のためを思うのであれば、人間を撲滅させる以外に選択肢がないと思っている。
自分勝手で、地球をこれだけ破壊して、動物たちの居場所を奪っている。
人間というのは、最低な生き物だと思う。
罪深いが、それが人間だ。
いくら綺麗事を並べても、人間は傲慢で自分勝手な生き物なのだ。
しかし私たちは人間である以上、どこかで「人間のために」生きなければならない。
どこかのタイミングで、なにかを犠牲にすることを受け入れなければならない。
人間に菌が蔓延することを防ぐためにネズミを殺すこともそうかもしれない。
穀物を育てるために、虫を殺すことだってそうかもしれない。
そして私は、お肉を食べることも、そのひとつだと考える。
たしかにサプリメントで補って、生きていくことが可能な人はいるのかもしれない。
だけどそうではない人もいて、なによりも、お肉を作ることが、食べることが、誰かの人生を豊かにするのなら、その選択をとることは、私が人間を続けていく以上、責められないのだ思った。
だけどだからこそ、そんな愚かな人間にも、動物のためにできることがあると思っている。
それは、犠牲にする動物達に、最大限の敬意を払うことだ。
生きている間は、幸せでいられるように手を尽くすということだ。
命を奪うときはできるだけ苦痛を感じさせない方法をとるということだ。
もしもあなたがあなたの人生において、「肉食」を続けるという選択を取るのなら。
動物を、食べるという決断をするのなら。
私はせめて、その食べる対象を選択してほしいと思う。
たとえ値段が高くても、余裕があるのであれば、信頼できるブランドのお肉や牛乳を手にとってほしい。
そうすることで良い農家に利益が生まれ、その利益は、そこにいる牛のために還元される。
その一歩一歩こそが、今いる牛たちの環境を良くする、現実的な一歩だと思うのだ。
また、違う章でも述べたとおり、日本の畜産業には改善すべき点も多い。
牛のために、もっと変えるべきところはたくさんあった。
牛が一生を繋がれて過ごすのは、虐待だよ。
麻酔をせずに去勢するのはおかしいよ。
放牧してあげないと、かわいそうだよ。
確かに正しい。
だけど、違うのだ。
「かわいそうだよ!」と叫ぶだけでは、何も伝わらない。変わらない。
「何も知らないくせに」と、溝を深めるだけだ。
私は自分自身がそのように訴えかけることだけを正義だと思っていたことについて、牛舎に行って、本当に本当に浅はかな考えだったと改めさせられた。
もしも本当に現場の人間を変えたいのであれば、具体的な方法を提示することだ。
「動物を殺さない世界」を目指すのも夢があって良いが、まずは今いる牛たちが快適に過ごせるよう「アニマルウェアフェア」にのっとった法律自体の改定も必要だと思う。
勿論法律の改定までは時間がかかるだろう。
それまで人々が意識をしてアニマルウェルフェアにのっとった牛舎のみから肉を買うようにすれば、いずれ時代は追いつくはずだ。
肉をなくそうとする前に、まずはあるべき牛舎の形を整える。
途方もなく地道な作業だけれど、それが確実な一歩のように感じたのだ。
ーーー
先週知り合いの牛舎に、子牛が誕生した。
壮絶な難産を一晩中見守り、ようやく芽を出した命だった。
立ち上がろうとする子牛は健気で、心のそこから愛おしいと思ったし、それを見守る母牛は、出産直後で血の気のひいた状態にも関わらず、まだか弱い我が子を舐めて、必死で生かそうとしていた。
牛たちは、可愛い。
私は相変わらず、彼女たちが大好きだ。
取材が終わってからも、牛舎に様子を見に行くことは辞めていない。
これからも、通い続けようと思っている。
彼女たちは頭がよくて、愛嬌があって、よく泣き、甘える。
尊い、愛すべき生き物だ。
そんな彼女たちの命を犠牲にするのだから、せめてその命を奪う日までの間、感謝と愛の気持ちを込めて、最大限の敬意を払って世話をすべきだと思うのは私だけだろうか。
「どうせ肉になるから」ではなく、「いつか肉になってしまうから」。
その気持ちを、私はいつまでも忘れたくはない。
あなたは動物が好きですか?
では、どうしてその動物を殺して食べられるのですか?
私はまだ、この二つ目の質問に関して、気持ちよく自分が納得できる答えを見つけられていない。
だけど、これから先も考え続けるであろう。
人間のために死んでいった、死んでいく、動物達のために。
ヴィーガンになるのも良い。
ならないのも、あなたの自由だ。
大切なのは、全てを知った上で、自分の目で確かめたうえで選択すること。
この記事を通して、みなさんにも、みなさんなりの答えを見つけてほしいと思う。
追記
この記事を作ったあと、親愛なる友人である堤下アツシさんに根保さんのハンバーグをお送りしたところ、動画内で紹介してくださいました。根保さんと一緒にすっごく喜んでしまったので、シェアします。これからも素敵なものに出会ったら、大切な人にはどんどん送りつける予定です。あやはし牛のハンバーグも、とくもり養鶏場の卵も。私にはたくさんのお気に入りの生産者と、商品がいます。こうやって、正しいものが正しいところに流れて行きますように。まずは知ってもらうところから。